まったりし隊

History of Hira

" 比良の歴史"

比良庄絵図

比良とは滋賀県大津市、JR蓬莱駅近くの天川から以北、高島市鵜川近辺までの比良山麗一帯を指す古い呼称をいう。古代海族とされる比良一族の居住地としてひらかれ、平安時代に隆盛となり、比良三千坊と称する寺院群があったという。古来、比良の湊がおかれ、北陸地方との交易を中心に水運にも従事。中世には比良八庄とよばれ、小松荘と木戸荘がその中心であった。1280年の「比良荘絵図」(※上記、画像:北比良区蔵)は有名である。この地を南北に西近江路が開通、1926年に江若鉄道が開通したが、現在では湖西道路、国道161号、JR湖西線にかわっている。


1376年 比良庄絵図(部分)

地名は古語およびアイヌ語で急傾斜の地の意味で、比良の断層崖よりおしだされる砂礫からなる扇状地性の急勾配の土地に由来する説がある。またこの地は、比較的水田に恵まれず、水利の便もあまり良くなかったので、田地をめぐる争いや水論がしばしば発生した。幕末期1734年の木戸村と荒川村の間に生じた大谷川の分水をめぐる紛争や、1810年には大物村と南比良村での四ツ子川筋の分水に関する争論などである。

比良の琵琶湖

一方、琵琶湖、浜辺の諸村では漁業が行われ、1651年の丸船(丸小船)改帳によれば、和邇38艘、木戸25艘、南比良23艘、南小松14艘、北小松33艘を有す。明治11年の調査では、和邇南浜でイサザ・エビ・ハス・アユ、北比良でヒウオ、北小松でシジミなどの漁獲があった。

また志賀では浜のグリ石(割栗石)拾いも盛んであった。これは子どもも参加する。グリ石を拾って一箇所に集めると、船頭がモッコをかついで丸子船にのせる。船一杯分手伝えばひとり10銭。1銭で大玉飴が3つの値打ち大正末ごろ、大人でも70~80銭の日当の時代であったから、子どもにはけっこう大きな稼ぎになった。

比良山系

さて比良山系は、その秀麗な山姿より「比良の暮雪」として多くの文人墨客の注目をひいてきた。そしてこの比良山系は東西の圧縮によって隆起した地塁山地といわれている。古生代には比良は海の底にあり、中生代には花崗岩の貫入を受け、さらに断層もともなって隆起した後、浸食され現在の姿になったと理解される。

ダンダ坊遺跡

また比良山系は人里から近く、人間の営みとも深い関係を保つ。修験道信仰の山として、また林業や石材、物資輸送の場としてその歴史を刻む。古くから石材の加工が盛んで、明治11年には木戸で石灯篭、石塔、礎石、野面石、庭石の生産があり、荒川でも礎石、野面石が大津方面に、また北比良では割石や薪が長浜や近江八幡に出荷され、明治13年には八屋戸・大物・南比良などから石材が湖上運送された。

文学としては、滝沢馬琴の「椿説弓張月」では、荒川に住んでいた山男を鎮西八郎為朝が退治する話が出てくる。万葉集や新古今和歌集でも詠まれ、松尾芭蕉の俳句として「月と花 比良の高ねを 北にして」とある。

比良駅前

2006年の北比良における古老からの聞き書きの資料には、湖岸近くに集落を構えてきた北比良の戸数は約190戸、他所からの転入者を含めると、戸数はその倍ほどになると記載されている。この一文だけでも、古来よりこの地に住む人と、新しく転入してきた人たちの、ある種、住み分けのような感情が垣間見え、興味深いものがある。そんな中、2007年より新旧問わず、元気な比良を発信しようと地域のイベントとして「かんじる比良」が毎年開催されるようになった。何よりも比良の風景は1年のいずれの季節を問わず美しい。得に新緑と紅葉の季節は格別であると思う。

 

参考文献

・滋賀県市町村沿革史(第二巻)1929
・比良- 山の自然譜 -(中井一郎)1977
・滋賀県百科事典(大和書房)1984
・比良の父・角倉太郎(比良登山今昔ものがたり)ナカニシヤ出版1997
・舟景の民俗-水辺のモノグラフィ・琵琶湖-(出口晶子)1997
・古絵図が語る大津の歴史(大津市歴史博物館)2000
・滋賀県の自然神信仰(滋賀県自然神信仰調査報告書)滋賀県教育委員会(2007)
・比良山系(山と高原地図)昭文社 2007

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