まったりし隊

Hokulea in Suouoshima

2007.05.20  

2007年5月20日。大阪あべの橋駅前から我が隊は0泊3日という「若いなら、旅費を浮かそう、体力で」を合言葉に、去年の8月に星野道夫メモリアルプロジェクトに参加すべく東京に強行した同じスケジュールで広島まで。そのバスの名前は「サザンクロス」。南十字星とは、今回の目的である「スターナビゲーション」、ホクレア号にぴったりではないか。その「スターナビゲーション」とは星、月、太陽の位置から方角と緯度を、それらが見えない場合には波と風から、また落陽の雲の形と色から天候を、海鳥の姿から島の位置を…。海図、羅針盤、コンパス、時計といった航海計器のガイドを使わず、知覚できる自然環境のすべてを利用して、現在地を把握し、針路を定める古代式伝統航海術なんです。広島からJRで大畠駅についたのが朝8時過ぎ。周防大島(すおうおおしま)までは歩いて渡ることにした。

売り上げの一部を山岳環境保全基金として使われるらしい広島駅で食べた駅弁「山のおべんとう」。その駅弁の鶏肉をほとんど食べたヨシコは今日も元気いっぱい。周防大島はものすごく広島寄り?なんでやろか?と聞かれても、僕には分からない。

知るべきは知ろうと、ハワイ移民資料館へ。日本・ハワイ両国間の合意による第1回ハワイ官約移民は1885(明治18)年1月、944人が渡航。そのうち周防大島からは約300人が参加しています。この島からは以後、約10年間で3900人が官約移民でハワイに移住するわけで、「ハワイ移民の島」と言われる所以があるのです。その島にハワイからのカヌー船、ホクレアが来るのですから、その背景を少しでも感じたいのです。

連れて来てくれたタクシーのおじさん(村田さん)に別れをつげ、ガラガラと民家の扉を開けると、目がとても優しい館長さんがお出迎え。本当に素敵な声と心で色々な資料を説明してくれる。僕たちしかいないので、「行こかメリケン、帰ろかジャパン~ハワイ官約移民百年~」という1985年、テレビ山口製作の番組を資料館の中でのんびり見る。外からの光が揺らいだ窓ガラスを通して廊下に注がれ、屋久杉を贅沢に使った欄干に浮かび上がる鳥が鳴いているかのように、TVの音声の隙間から野鳥のさえずりが朝の日差しの中から聴こえてくるのです。

館内の資料で、1914年の練習艦隊歓迎運動会の写真など、セピア色の横長の写真には多くの日系人が鋭い眼光をきらめかせ、レンズを睨んでいる。顔つきも素晴らしく、根性が違うぞ!っと気迫を感じるのである。そして第二次世界大戦開戦ともなると、多くの日系移民がいたハワイでは祖国に対する心情が複雑であったそうで、第442連隊(詳しくはコチラより)など日系人の部隊が編成され、アメリカのために戦った歴史があります。穏やかな日差しと、古びたミシン、ワッフル焼き器に、モダンな衣装の中で戦争の資料を見るというのは、戦争が生活の一部であったという時代を教えてくれるのです。

館長の藤元重則さんに見送られ外にでると、高台から緩やかな放物線を描いて広がる里山を見渡せる。田には水がはられ、苗が風にゆれている。不必要なほど多い鉄塔と電柱の中を、広葉樹が不思議な様相を見せる山々の下、アスファルトの照り返しに耐えながらホクレアが来る桟橋を目指す。ただ目が合うと「こんにちわ」って挨拶をくれる学生さん。心が温かくなる。副隊長、ヨシコはお腹が減るとすぐに不機嫌になるという素晴らしい性格の持ち主なので、事前のチェックは怠りません。どこにおいしい(そう、おいしいことが絶対条件!)料理屋さんがあるかちゃんと隊長は把握しているのである。そのまま開店前のお店で待っていると中から「お客さん、待ってる!そこもう昨日拭いたからやらなくていぃ!」なんて声が聞こえてくる。「食在周防あらかわ」は、本当においしい。瀬戸貝の釜飯もたっぷり♪昼間のビールも最高で、イカの塩辛がまたグビグビと麦酒をすすめてしまうのです。何よりも器の船の模様に、ヨシコとともにこれから来るであろうカヌー船、ホクレアの期待を嫌が追うにも高まるのです。

「なんじゃい?ワレ!」関西弁だとこんな感じでしょうか。食後、急いで桟橋に行き、一番前でホクレアを迎えようと構えていると、ひとりの日に焼けたおじさんがギロリと睨んでくる。大阪からホクレアを見に来たんです、と伝えると、「ここはセレモニーするけぇ、違う場所に行けい」という。そうかと思えば近くの学生をつかまえて「お前ら、一年坊主をつかまえてドンチャンやれやぁ!」沖に向かって「こらぁ!潮の流れが西からになるから、お前らの技術じゃ帰れんぞ。はよ、その船帰ってこんかー!」さらに漁師には「もうすぐ船来るから、釣りしてんと逃げぃ」と叫びまくっている。あぁ、前では見れないなぁ、何て思っていると、そのおじさんが近づいてきて「ん?何や、ホクレアのTシャツ着とるな。ワシに着いて来い」という。とうとう端のほうに追いやられるのだろうと思っていると、横に停泊している大島丸船内へ行くではないか。「ここがトイレじゃ」「特別じゃぞ」「ここがワシが今から正装する部屋じゃ」「特別じゃぞ」なんていいながら、あれよあれよと大島丸の最上階は特等席、ホクレアが最初に見えるであろう場所に連れて来てくれたのです。そして海を指差し「あの岬が分かるか?あそこからもうすぐ来るから」「特別じゃぞ」何ていいながら、颯爽と階下に降りていくのです。(ありがとう~!!)

実はこのおじさんもですが、桟橋では多くの出会いがありました。まずは日本航海の公式ブログ「ホクレア号航海ブログ」の翻訳をされている加藤晃生さん。何でも知っておられます。「星の航海術をもとめて―ホクレア号の33日」ウィル・ルセルク著の翻訳もされた方ですよ!自転車で島中を追いかけておられます。そして本当にお世話になった「サユリ」さん。荒木汰久治(たくじ)さん率いた「海人丸」のエスコートスタッフだった方で、今は山口で隠れ家的なサロンをされているんです。(荒木さんも後ほどお会いできました!)皆さん、自由で自立した方々ばかりで最高ッス!

ガガガ。ピー!そんなハウリング音とともに船外スピーカーから、「えぇ、ホクレア号が見えてまいりました~」なんてアナウンスがかかる。来たー!もう夢のようです。1月から恋焦がれたカヌーが小さな点から次第にカヌーへと変化し、さらにはその上で人影がもぞもぞと動き出し、帆は張られてはいないが、その小さくも大きな存在が近づいてくるのである。太陽は波間に宝石を散りばめて迎え、風はひとときの安らぎをもってじっと見守っているかと思えば、桟橋へと心地よく吹きつけ誘導する。雲は空が見やすいように退散し、海はかのカヌーをその意義、その意思の根底から支え、桟橋で待つ人々はホクレアが近づいてるのではなく、桟橋そのものがカヌーへと引き寄せられているような錯覚に陥るのだ。すでにヨシコは狂喜乱舞。マニュアルのカメラのフィルムを急ぎ巻き上げ、次のフィルムを装着している。横では小さな男の子が放水し歓迎する船舶を見て「海上保安庁かっこいいー!!」なんて叫び、加藤さんは電話で連絡を取りながら忙しそうだ。桟橋では学生が太鼓を打ち鳴らし、ブラスバンドが「宇宙戦艦ヤマト」を奏でるも、「さらば~地球よ~旅立~つ船は~」って、迎えるにふさわしい曲であるかは謎である。

もうすぐホクレアが入港するというのに、ひとりのおじさんはまだ釣りを続行。「わしの生活かかっとんねん!ホクレア?エクレアと違うんかい?」的な感じで素敵でした。ギリギリまで棚を探っては何匹も魚を釣るのは流石である。この近海の潮の流れや多くの運行船を考えてか、「ヒロシ」がホクレア曳航する。その船首には今回のスポンサーでもあるヤンマーの旗が美しくたなびくのである。

そのころになると、ブラスバンドがピンクレディーのサウスポーを奏で出す。誰が左利きやねんと思わず言いそうになるが、ホクレアを迎える心に変わりはない。しかし、なんでやねん!というツッコミのように、ホクレアはその数分後、桟橋にバキバキバキー!メキッ!という音をたてて突っ込んだのである。

予定外の場所に滑り込んだので、全員で方向転換。船上で祈りとポリネシア圏に伝わる踊りをして、上陸です。

※AINAと呼ばれるホクレアのダンスをクルーは披露するが、最後の拳にこめられたエネルギーがその場にいた人に伝わるように、力一杯膝をたたく。我々が踊るアイナの最初は“漕ぐ”ということ。全ては自らの力で前に進むことから始まる。海に向かって漕ぎ出すときこそが人間の本当の強さ、勇気が必要だ。ホクレアのクルーは全員その勇気を持ち合わせている。(荒木さんの5月16日の日記より。)

アイナ

①山から木を運びおろしカヌーを作る。

②そしてカヌーができたら漕いで沖まで行く。

③魚たちのすむ外洋にでたらセールを張る。

④波に揺られ、波長を合わせ生活する。

式典は炎天下の中、進行する。大島商船の校長先生の英語は絶好調!日本語英語炸裂で、声は高々。おそらく半分ぐらしかクルーに伝わっていない雰囲気だが、心から歓迎している気持ちであふれている。そしてゾロゾロと親に連れられ、小さな園児たちがやってくる。「だっ誰だ?この大きいお兄ちゃんたちは?」と恐怖半分、興味半分。手に持った花束を渡す頃には、とまどいと安心の顔半分。

ホクレアは色々なものをのせてやってきた。それは伝統航海の知識よりも、人と人の「絆」である。ホクレアに導かれ会いに来た人々をつなげ、さらには国と国をつなげ、ホクレアに関わった先人をのせていく。今までも、これからも。

大島丸の甲板から桟橋に抜け、クルーを迎える。ホクレアのクルーの手はごつごつしているようで、とても柔らかだ。カサカサと日に焼けているのだけれど、ぎゅっと握られるとどこかに連れて行かれそうになるのです。本来「アロハ」とは、古代からハワイの人々の中に受け継がれてきた「心の在り方」を意味します。他者に対する友愛や尊敬の精神を言葉にしたもの、とでもいったらいいでしょうか。小さな子どもから大人まで、「アロハ」「こんにちは」「サンキュー」「ありがとう」と、友愛の言葉を交わす時間がいつまでも続いていきます。

桟橋から椋野漁港までサユリさんの車に乗せていただきました。ホクレアはまた移動するのです。風を頼りにハワイからやって来たカヌーを迎えに、化石燃料を燃焼させて迎えに行くというのは怪しからん!という人がいれば、少し聞いて下さい。サユリさんは、ほんの数時間前に出会い、言葉を交わし、そして相手を知り、すすんで行動をともにしてくださいました。そのことの大切さをホクレアは運んで来てくれたと思います。持続可能な環境をつくるにあたり、このような心が大切だと思うのです。一方、自動車産業の未来は、この拝金主義の世の中とはいえ、利益も考えるとバイオ燃料や、燃料電池に移行していくほうがいいと思います。雑誌ニュートンによると、燃料電池の小型化が難しくコストもかかるようですが、そのように環境を考えるということは、自分たちが生きていくためであって、さらには人が住めなくなってしまった世界に、人が乗るであろう自動車が必要であるかを考えると、その答えは自ずと導かれると思うのです。

椋野漁港では、新鮮な魚のマリネも振舞われ、各地からのフラダンスが大好きおば様方が、日頃の成果を披露。ヨシコは新鮮な「みかんジュース」に満面の笑顔。しかし今朝、祝島で原爆の残り火を沈める使命を帯びたホクレアを迎える僕たちの頭上を、戦闘機が編成を組んで空を破りながら基地へと帰還していく。それでも人々の想いが渾然一体となって熱さを覚える。ホクレアを今か今かと待ちわびる人々の顔はしだいに高揚し豆粒のようなホクレアを見つけては、声をあげるのです。おーい!ホクレアを迎えるために、フラのリハーサルやるよー!といってフラチーム混成でリハーサル。でも体力がないのですぐに終了、本番開始。アローハ!ホクレア!

ホクレアはカマヘレ号のサポートを受けてここまで来た。カマヘレとはハワイ語の『カマ=友達や人々』と『ヘレ=行く』でできた言葉で、「旅につきあう友」という意味。その船上には、ハワイ人タイガー・エスペリが夢見た日本のカヌー、「カマ・ ク・ラ号」(ポリネシア語で“陽出ずる子供”の意)の建造を目指し、 模索の日々を続ける内田正洋さんの姿も。神戸、羽咋と短期間に2度お会いしてから、好きになってしまった我が隊は、「ウッチー!」と思わず叫んでしまう。もちろんご本人の前で「ウッチー」なんて口が裂けてるけど言えません。

椋野漁港に船をつけてもホクレアのクルーは中々僕たちの元へ来ず、円陣を組んでいます。目の前をスーっと音もなくキャプテン、ナイノア・トンプソンが歩いていきます。そしてクルーの元にとけこみ、抱き合うのです。実は周防大島の前、祝島では、日本伝統の櫂伝馬(木製の船)をはじめ、シーカヤックがホクレアを海で出迎え、ほら貝が鳴り渡る中、「平和の火(広島原爆の残り火)」をホクレアに託していました。

以下は公式ブログからの引用です。「私たちのカヌーがこの平和の象徴の運び手に選ばれたことは、大変な名誉です。」ナイノア船長はろうそくを持ちながら言いました。「そしてホクレアが生まれてから今この瞬間、この場所までホクレアを運んで来られた全ての方々に申し上げます。私は今ここに皆さんとともに居られることのありがたさを、永遠に忘れないでしょう。」そして彼はココナッツの殻から海水を注ぎ、火を消しました。「この世界から全ての憎しみが永遠に無くなるよう、願いを込めてこの火を鎮めます。」

そして彼らはこちらへと歩いてきました。彼らを大島の人々は笑顔と握手で迎えていくのです。

 

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